聖書とコンピュータ


目 次

1.聖書とコンピュータの関係
 a. 過去と現在
   1) 大型コンピュータ時代
       2) パソコン時代
       3) ネットワーク時代
  b. 聖書とコンピュータ的な考え方
      1) テキストの「章節区分」=「アドレス」(番地)
      2) 欄外注(引照)=ハイパーテキスト(ハイパーリンク)
      3) コンコルダンス=データベース
  c. パソコンやインターネットを利用して聖書のより深い理解へ
      1) グーテンベルクの印刷革命と現在の情報化革命
      2) 情報化による研究教育革命時代の聖書(学)
      3) 限界あるいは問題性
2.パソコンから聖書へのアプローチ
  a. 資料(聖書本文、翻訳、注解など)の電子化とデータベース化
  b. CD-ROMのなかの聖書(学)
  c. インターネットのなかの聖書(学)
3.パソコンをツールとした聖書の解釈
 a. キーワードによる解釈
 b. 具体例
 c. ネットワークと聖書解釈
     1) ヴァーチャル・コミュニティ
     2) 電脳空間における「ビブリオドラマ」
     3) 多様な文化的コンテキストとの出会い



 

  1. 聖書とコンピュータの関係
     

     

    1. 過去と現在
       

       

      1. 大型コンピュータ時代(統計言語学、本文批評)

         「コンピュータが神学や聖書と関係しているなんて!」と、不思議に思われるかもしれません。しかし、そうではないのです。じつはコンピュータが人文科学の分野でも応用できることがわかりはじめたとき、神学の基本である聖書学の領域、とくにヘブライ語聖書の研究に、コンピュータが用いられたのです。コンピュータがデータベースを創り出し、テキストの言語や文体の統計学的分析であるとか、写本の整理に応用できることがわかったからです。

         とくにイスラエルでは1970年前後から、Y.T.Raddayの研究グループがいちはやく大型コンピュータを用いて計量言語学的手法によってヘブライ語聖書の中の諸文書の「著者問題」(統一性の問題)の解明やモーセ五書がいくつかの資料文書の編集によって成立したとする「資料文書説」(Wellhausen仮説)批判をおこなったり、「キーワード・コンコルダンス」や「コンピュータ・バイブル」を作成していました。 Radday, Y.T., Two Computerized statistical-linguistic Tests concerning the unity of Isaiah, JBL 89, 1970, 319ff.; Radday, Y.T., The Computer Bible, Vol.2: An Analytical Linguistic Concordance to the Book of Isaiah, Wooster OH: Biblical Research Associate, 1971; Drake, B., Unanswered Question in computerized Literary Analysis, JBL 91, 1972, 241ff.,;さらに詳しい文献は、野本真也「旧約聖書研究と情報処理」(『基督教研究』第50巻第1号 1988年12月、49ページ以下の脚注3)にあります。)
         
         またペンシルヴァニア大学とヘブライ大学が Septuaginta(ギリシャ語七十人訳聖書)の研究を共同プロジェクトを組んでおこなっており、(Computer Assisted Tools for Septuagint Studies (CATSS). Project Directors: R.A.Kraft - E.Tov., Bd.1: Ruth (Atlanta-Georgia 1986, Scholars Press, Society of Biblical Literature: Septuagint and Cognate Studies Series 20) スイス・フライブルクのBiblisches Institut (BIF) では学術用のヘブライ語原典 Biblia Hebraica Stuttgartensia の改訂がすすんでいます。

         聖書学がこれまでどんなにコンピュータと密接にかかわりをもって研究をすすめられてきているかは、オーストリアのインスブルック大学の Dr. Josef Oesch の作成した文献表http://www.uni-passau.de/ktf/bibel/innsbruck.edvbibel.lit)をみていただけば、一目瞭然です。

         

      2. パソコン時代(ワープロ、データベース)

         日本で16ビットのパソコンが日本で一般に普及しはじめた1984年7月、わたしも聖書学の研究に応用しようと思い立ち、NEC PC-9801E を購入しました。(当時の研究状況は、「旧約聖書研究と情報処理」( 『基督教研究』 50巻第1 1988 12月、36-61ページ)に書いておきました。)

         同志社大学神学部では、1991年4月から「聖書と情報処理」(Seminar: Bible and Computer) というテーマで「聖書学演習」を開始しました。旧約聖書のヘブライ語原典、新約聖書のギリシャ語原典をはじめ、英訳、日本語訳などのデータベースがパソコン・レベルの情報処理技術で使用可能になってきたので、聖書データベースを作成し、それらを利用しながら、聖書原典の歴史的研究や構造分析を効率的にすすめていく方法の開発、言語学的分析データベースの作成、キーワード検索による聖書の解釈などを学生諸君とともに具体的に試みていくことにしたいというわけで、日本語聖書やヘブライ語原典のデータベースを「桐」(管理工学研究所)を使って作成したりしました。(当時の研究状況については、野本真也・高橋哲郎「聖書データベースの構築」(『基督教研究』第53巻第2 19923 1-28ページ)を参照してください。) 

         1997年度からは、神学部入学生は全員「神学演習」の基礎科目として情報処理教室を使って、コンピュータの基礎を二人の専任講師(小原克博、関谷直人)から学ぶことにしています。大学院神学研究科でも半年間ですが、聖書学に関するパソコン利用のゼミを今年から始めています。もちろん、神学部や大学院神学研究科の学生たちは電子メールのIDを持っており、学内のパソコンや自分のパソコンで教師との対話やレポート提出などにも使っています。

         

      3. ネットワーク時代(WWW, NC
         

       
        パソコンの利用の仕方も急激に変化し、これまでは最初にワープロを覚え、次にデータベース、それからパソコン通信へ進むのが常道でしたが、ここ1年ほどのあいだに、インターネットが急速に普及しました。そのため、今では、最初に「ブラウザ」(Netscape Navigator, Internet Explorer)の操作からコンピュータの世界に入るのが普通になっています。

       あと半年ほどで出てくるWindows 98 の最初の画面(デスクトップ)は、インターネットのブラウザと一体化された仕様になると言われています。つまり、コンピュータは、大型コンピュータの時代から、パソコン(NetPC)またはもっと簡単な端末(NC=Net Computer)によるネットワーク・コンピューティング(NC)の時代へ移行しているのです。これは、電子化された情報を集中管理するのでなく、ネットワークを Web=「織物」「蜘蛛の巣」のように世界中に張り巡らし(WWW)、情報はできるだけ分散して、個々の端末パソコンとか小さな単位のサーバーに置いて、ネットワークを通じて相互に利用する形態がすすんできているのです。

       こういう状況ですから、インターネットの世界をのぞいてみると、聖書や聖書学に関するWorld Wide Web (WWW) Site (ホームページ)がすでに数多く開設され、しかもどんどん増え続けています。

       また CD (DVD)などでの電子出版も盛んになりつつあります。これも数が増えると、個人がパソコンでというわけにはいかず、ネットワークで利用する形態が盛んになりつつあります。(Encyclopaedia Britanicaなど)。神学部のサーバーには、現在6連装のCDチェンジャーが装備されており、神学・聖書学関係の文献目録 Religious & Theological Abstracts on CD-ROM; Religion Indexes: RIO/RIT/IBRR, 1975- on CD-ROM; Old Testament Abstracts on CD-ROM)をはじめ百科事典やカール・バルトのCD(Die Kirchliche Dogmatik on CD-ROM. スエーデンの KAB Konsult AB スイスの Theologischer Verlag と共同で作成したフル・テキストのデータベース)などをスタンドアローンからネットワーク利用へ移行しつつありますが、今後は100連装のCDチェンジャーを何台も設置して、神学や聖書学関係のCDなどは、イントラネット(学内LAN)で常時利用できるようになることでしょう。

       ところで、聖書がコンピュータの世界にかなり早い時期から入り込んでいたのは、なぜでしょうか。これは、聖書が文献テキストとしてクローズドされたものであり(正典)、2000年にわたって研究されてきたため、いつの時代にもそれなりに、その時代の文学や文献学の研究のモデル、とくに新しい研究方法の開発の際のモデルになってきたという歴史があったからだと思います。ですから、いままで手作業でしている研究の方法を、電子化したり、コンピュータを使ったりすれば、もっと効率的にできないかと考えて、コンピュータ利用がかなり早い時期から始まったと思われます。

       しかし、それだけではありません。じつは、古代・中世からの伝統的な聖書の読み方や研究方法には、現代のコンピュータ的な考え方とたいへん仲の良い考え方があったからではないかと、わたしには思えるのです。
       

       

    2. 聖書とコンピュータ的な考え方
       

       

      1. テキストの「章節区分」=「アドレス」(番地)

         コンピュータの世界には、メモリーやデータを整理したり、プログラムを組むときなど、「アドレス(番地)」を付けるという考え方があります。じつは、聖書にはコンピュータの発明以前から「章節区分」(『旧約新約聖書大事典』(教文館)参照)というアドレス(番地)が付けられて、現在にいたっているのです。

         聖書は古代から礼拝の中で朗誦されていました。ユダヤ教の朗誦をインターネットで聞くことができます。 (ホームページ「神学・聖書学のサイトとソフト」のユダヤ教の項参照)。その際、意味のあるまとまりに段落区分をつけたり、息継ぎのための記号区分をつけていたのです。旧約は五書の成立後まもなくのパラシャー(段落区分)とパースーク(節区分)が付けられ、新約は3−4世紀にはケファライア(章区分)とアナグノースマタ(読朗区分)が付けられたといわれています。現在用いられている章区分は、1206年パリのステファン・ランクトン(のちのカンタベリー大主教)がウルガータ聖書に付けたのだそうです。それが100年後、旧約聖書のヘブライ語聖書へ後導入され、マソラ学者の節区分と合体したということです。新約の節区分は、1551年パリのロベール・エティエンヌ(ステファヌス)という印刷屋が付けました。旧新約聖書全体に章節が初めてつけられたのは、1555年ステファヌス発行のウルガータ聖書で、現在の区分は1560年版のジュネーブ聖書につけられたものを踏襲しているといわれています。

         このように、聖書の各文書のテキストに「章」「節」のアドレスが付けられたのは、聖書がデジタル的な処理をされたとみることができます。中世までの礼拝での利用のためだけでなく、印刷された聖書を読む近代プロテスタント世界では、聖書のテキストを読んだり研究したりするとき、細かいアドレスを手がかりにして効率的な処理やコミュニケーションをはかっていたのです。

         

      2. 欄外注(引照)=ハイパーテキスト(ハイパーリンク)

         聖書には「引照付」(Reference)の版があります。これは聖書のある箇所に出てくる語句や並行記事などが他のどの個所に出てくるかを欄外に注として簡潔に示したものです。(口語訳聖書(協会訳)の引照付聖書には、同義語や同趣旨の文章、背景となる歴史的事件、反対の語句、人名や地名の別名などを指すためと説明されています。) 1節に2つも3つも付いている場合もありますが、このような習慣はかなり早くから始まっており、中世のユダヤ教のマソラ学者たちのヘブライ語聖書の写本には欄外注がびっしりと書き込まれています。また、ユダヤ教のバビロニア・タルムードには、欄外注のほか、注解も書き込まれています。ネストレ版ギリシャ語新約聖書(Novum Testamentum Graece (Nestle-Aland), 27.rev.Aufl. 1993)やビブリア・ヘブライカ(Biblia Hebraica Stuttgartensia. Ed.K.Elliger et W.Rudolph.1967/77. 4., verb.Aufl. 1990)の学問的脚注もこのような習慣の延長上にあります。

         これは現在のコンピュータ処理で言うところのハイパーリンクを張る「ハイパー・テキスト処理」や「キーワード検索」に当たるでしょう。聖書のある個所の語句の意味はその語句が出てくる他の個所の文脈との連関のなかで読まれるべきであるという指示が「引照」の役割であり、中世から今日までその手法が聖書の解釈の基本として大切にされてきているのです。

         

      3. コンコルダンス=データベース
         

       聖書研究のために、古くらコンコルダンスが作成されてきました。コンコルダンスは語句索引の辞典ですが、一つの語が聖書のどこに出てくるかを一覧表にしたもので、聖書の研究のために古くから作成・利用されてきました。

       現在でも、S.Mandelkernのヘブライ語聖書コンコルダンス(Veteris Testamenti. Concordantiae Hebraicae atque Chaldaicae Rep.1955. 2 Bde.)、 Hatch.E./Redpath,H.A.の70人訳旧約ギリシャ語聖書コンコルダンス(A Concordance to the Septuagint and the other a Greek versions of the Old Testament. Rep. 1954. 2 Bde.)、コンピュータで作成したNestle-Alandの新約ギリシャ語聖書のコンコルダンス(Concordance to the Novum Testamentum Graece of Nestle-Aland, 26th edition, and to the Greek New Testament, 3rd edition. Ed. By the Institute of NT Textual Research and the Computer Center of Muenster Univ. 3.Aufl. 1987)、 さらに各国語聖書のコンコルダンスなど(Kiraz, G.A., A Computer-Generated Concordance to the Syriac New Testament. 6 Vols. 1992)は聖書研究に不可欠ですが、非常に高価です。しかし現在では、これらの代わりに原典聖書や各国語聖書のコンコルダンスが電子化されており、非常に便利になっています。

       コンコルダンスは、忘れてしまった聖書の箇所を調べるためだけではありません。ある単語がどこに出てくるか、ある語句またはある単語と他の単語が関連して出てくる箇所はどこかなどを調べることで、その箇所の意味の理解を深めたり、伝承の存在や流れや編集の特徴、思想的連関などを探ったり、テキストの文学的構造を分析したりするために、なくてはならないツールなのです。

       聖書のコンコルダンスだけではありません。聖書の背景となっている思想や歴史にかかわる古代の作品のコンコルダンスも聖書との関連を調べる上で重要なもので、死海写本(クムラン文書)やアレキサンドリアのフィロンのコンコルダンスなどがあり、フィロンのコンコルダンスは電子化の作業が進んでいます。(Philo Concordance Project

       このように、今から振り返ってみると、聖書は古くからコンピュータ的なデジタル思考と密接に結びついて読まれたり研究されたりしてきたわけですから、現在の聖書学がコンピュータに無関心でいられるはずはないのです。
       

       

    3. パソコンやインターネットを利用して聖書のより深い理解へ
       

       

      1. グーテンベルクの印刷革命と現在の情報化革命

         グーテンベルクが15世紀半ばに発明した活版印刷、聖書を写本から印刷物へと変えることで、聖書の読み手や読み方を変え、教会や信仰までも変えることとなりました。それが歴史的にどんなに大きなことであったかは、「聖書のみ」という宗教改革の原理を思い起こしていただくだけで十分でしょう。

         ちなみに慶應義塾大学は1996年春、グーテンベルクの「四二行聖書」を8億円で購入されましたが、創立者福沢諭吉は1862年8月25日にペテルスブルクの帝室図書館でグーテンベルク聖書を見たと日記に記しており、そのことが図書館に残っていた署名で確認されたそうです。(「図書」(岩波書店 1997年6月号 40ページ以下)「写本から印刷へ グーテンベルクと印刷文化の誕生(一) 福沢諭吉とグーテンベルク聖書」(慶應義塾大学・英文学の高宮利行教授)の連載参照)。 そうしたこともあって、慶應義塾大学では、グーテンベルク聖書の購入を契機にHUMIプロジェクトを発足させ、図書館が所蔵するほかの稀観書とともに、これらをデジタル化するための作業をすすめておられますが、慶応グーテンベルク聖書はすでにデジタル化され、すばらしい高精細画像がインターネットで公開されています。(グーテンベルク四二行聖書(慶應義塾大学所蔵)情報処理振興事業協会(IPA)がおこなっている「パイロット電子図書館実験」の「評価実験」をクリックして、モニターユーザ認証画面で、ユーザ名にguestと入力する(パスワードは不要))。

         現在始まりつつあるマルチメディアによる情報革命は、グーテンベルク第二革命とも呼ばれていますが、グーテンベルクのとき以上の情報革命が現在始まろうとしているのであれば、この情報革命もまた聖書の読み手や読み方を変え、教会や信仰までもラディカルに変えていくことになるのではないでしょうか。ただ、今のところは、ちょうどグーテンベルクのときに中世の写本の世界を印刷という新しいメディアによって忠実に、また効率的に再生産するというふうに始まったように、現在の情報革命も、新しいマルチメディアによって今までの印刷文化の延長線上に印刷文化をより効率的に展開するという仕方で進んでいるようです。しかし、やがてはラジオやテレビが印刷文化を変えていったように、さらにわれわれの意識そのものを変えていくような新しい次元のマルチメディア文化が始まるにちがいありません。東京女子大学の黒崎政男先生(黒崎政男『カオス系の暗礁めぐる哲学の魚』(1997年5月 NTT出版))は電子テキスト時代を迎えて、人間主体をどうとらえ直すか、これを「書くことの歴史」をふりかえって著者性を考え直すとか、ヴァーチャル・リアリティについて哲学の実在の問題を考え直す作業をしておられます。

         ところで、われわれは今、このような新しい次元にさしかかっているのですから、現在われわれがどっぷりつかっている印刷文化時代の「聖書」をできるだけ対象化して、突き放して見直してみる必要があると思います。そうすると、われわれの聖書に対する態度は、いかに近現代の意識の枠組みの中に固定化されてしまっているかが見えてまいります。近代以前の、印刷文化以前の聖書は、写本としての聖書です。中世の修道士たちが写本を造るときの様子を思い浮かべると、その機能の積極的な意味、たとえば仏教などの「写経」と同じような積極的意味もみえてきますが、そのような比較をするまでもなく、印刷文化時代という枠組みの中で、今までなんら疑問をもたなかった聖書の理解の仕方に、じつは限界や問題が潜んでいたのではないかと思われるのです。

         たとえば、いわゆる聖書学概論(Einleitung)の「著者問題」です。(パウロ書簡や予言書などで、真筆かどうかを問い、偽名、加筆などは低く評価。福音書のイエスの言葉も真正かどうか、福音書記者のものかどうかを問う)。そこには、個人を中心におく考え方が強力な前提となっています。あるいは「本文批評」。ここにはオリジナルとコピーのちがい、それらの評価の問題が潜んでいるのではないでしょうか。聖書学は20世紀に入り、伝承史や様式史、編集史などの方法を開発することで、個人や文書といった枠組みを超えた聖書の研究を進めてきているのですが、まだまだ十分ではありません

         聖書テキストのそもそものスタートはどこか、どこからスタートして、どのように生成され、現在の聖書になっているのか、聖書のテキストの成り立ち、編集、補筆、正典化、写本の作成、解釈の欄外記入、さらに翻訳などのプロセスを考えてみますと、それら各段階において、聖書の場合は、著者と読み手を厳密にわけてしまえないことに気づきます。各段階のだれもが、なんらかの意味で「作り手」としての作業を担っていたのです。そして各段階で、つねに解釈やメッセージが編み込まれて、聖書は歴史の中で成長し、生きつづけてきたのです。ですから、近代の歴史観や歴史学の枠組みの中での聖書の「歴史的研究」には限界があり、われわれはそのような限界を超えて、多様な作り手、聖書の作成と伝達と読み(利用)にかかわった人々の聖書理解と出会っていくことを目指す必要があるように思います。たとえば、聖書のテキストの中にキーワード化された語句を見いだすことができますが、そのようなキーワード化のヒントを最初に与えた人、それを語りの中で強調した人、それをテキストに埋め込んだ人、読む人の発見する喜びを大切にするために故意に隠そうとした人、反対に発見したことを知らせるために解釈の記号を欄外につけた人、朗誦のときにアクセントや声色などでそれの注目をひくように工夫した人など、いろいろいたはずなのです。

         情報革命の時代にさしかかって、今大きな問題となっていることの一つに著作権があります。聖書の電子化の場合も、これが大きな問題です。電子化された情報というものは、コピーするのも改変するのも技術的には簡単なことで自由自在です。ガードするほうがむずかしく、著作権という考え方そのものが成り立たなくなるのではないかと思えるほどです。もちろん現在は、モラルや倫理的な面、あるいは経済的な面で問題にされていますが、電子化された情報は読み手、受け手が改編自由自在なメディアであることから、活字印刷文化の時代や近現代という限界の中にある著作権という問題意識を超えて、著者と読者という固定的な立場を超えた意味伝達や意味共有や対論などが、新しいルールやモラルを生み出すことを期待したいとおもいます。当面は、著作権フリーの聖書翻訳をインターネット上で共同作業として展開することはできないだろうかと考え、現在、創世記の私訳を公開しています。

         印刷文化時代の産物である著作権に関連して、オリジナリティーとはなにかが問い直されることも期待したいと思います。本来的なオリジナリティーとはなにか。これは芸術の世界では当然、問題が煮詰められており、意識も高いのですが、オリジナルなものは、複製不可能性、いま・ここという唯一一回性に限定されることで、ほんとうの値打ちが出てきます。たとえば、図書館でせっせと買い込んだバックナンバーの雑誌など、何の値打ちもなくなるどころか、検索には不便であり、保管コストも高く、問題になっています。OCRで電子テキスト化してしまえば、検索も効率的になり、場所もとりません。聖書学では、Old Testament Abstracts 誌がCD-ROM 化され、非常に便利になりつつありますが、今後は他の雑誌などもそうなってほしいものです。逆に言えば、世界に一つしかないもの、コピーでは値打ちのないもの、コピーでも世界に数部しかないものこそが、値打ちがあるのです。ですから、図書館はヴァーチャル図書館になり、情報センターになり、博物館のほうが、むしろ重要な意味をもってくる時代になりつつあります。

         聖書も他の書物とくらべれば値段は安いけれども、電子化されたテキストとくらべれば高いという問題もあります。辞書や百科事典など、中身の情報そのものと情報媒体のコストのバランスが問題となっていますが、聖書や聖書学関係の書籍雑誌にも同じ深刻な問題があるのです。

         

      2. 情報化による研究教育革命時代の聖書(学)

        ☆ heuristic (発見や学習を助ける)

         聖書と聖書研究のツール(コンコルダンス、辞書、地図、年表など)が電子化されると、それらに接する人もチャンスも増え、関心も強くなってまいります。そうなると、各自の関心に応じて自ら操作することになります。原典で読めるようになりたいとか、いろいろな解釈を知りたいとか、ほかの分野(たとえば英文学)からの聖書の引用状態の調査やその結果のリンクなども、じつに容易にできることになります。そういったことを、今までのように専門家が一方通行で「教える」のではなく、自分で「学ぶ」ことが主となる時代がまもなくやってくるのではないでしょうか。自らが学び、専門家はそのための「支援」「助言」をするという、いわゆるヒューリスティックな教育が主流になっていくでしょう。インターネットのメールだけでなく、マルチメディア・ネットワークのTV電話やTV会議などのツールがパソコンで使えるようになりつつありますが、これらのツールで世界の研究者がお互いに、まただれでも自由に専門家に、直接質問をしたり、対話したりすることができるようになると、学校タイプの教育や教会といった枠組みが変化していくことでしょうから、このような新しい学びの方法によって、新しい聖書理解や聖書解釈がネットワークの中で展開されていくようになるにちがいありません。(新しい教育の可能性については、美馬のゆり『不思議缶ネットワークの子どもたち』ジャストシステム 1997; 佐伯胖『新・コンピュータと教育』岩波新書 1997参照)。

        ☆ international

         今、国際化による言語と文化の相互理解の問題がクローズアップされ、それに呼応するかのように宗教や神学の多次元主義が登場していますが、聖書はこの問題に古代からずっと深くかかわってきました。すでに聖書の中にも予言者のようにそのような問題意識が強く見られますが、聖書自体、紀元前数百年も前にヘブライ語聖書がギリシャ世界に散在するユダヤ人のためにギリシャ語に翻訳されたときもそうでした。アレキサンドリアのフィロン研究がかかわっているのも、この領域です。

         最近の日経記事によりますと、現在、「ニホンゴ キトク」(日経970721「2020年からの警鐘」参照)が問題になっているそうですが、漢字はとくに英語主流のインターネット世界とは相性が良くないので、漢字と結びついた文化はますます世界から孤立していくのではないかという危機感が生じているというのです。言語はどんな言語でも、まず話し言葉として生まれ、そこから「文字」というメディアを持った言語だけが生き残り、しかも印刷という活字メディアに載らない言語は自然と消えていくことになったという歴史があるので、「言語を淘汰するのはメディアである」(中央大学・三浦信孝教授)とさえ言われています。とすれば、電子媒体にそぐわない言葉は、今後世界から孤立し、消えていくことになるのでしょうか。しかし反対に、多言語の情報処理技術は今後ますます発達し、インターネット上で多様な言語が利用可能になっていくし、多様な言語に接するようになることで、国際理解も深まり、自分の文化を見つめ直す機会ともなるという楽観的な見方(東大・西垣通教授)もあるようです。

         では、電子化聖書やインターネット上の聖書はどうでしょうか。われわれはかつて98の外字作成機能を使ってヘブライ語の外字を作成していました。マックの聖書ソフト(MacBible)は早くからヘブライ語やギリシャ語を取り扱ってきました。現在では、ヘブライ語のフォントもインターネット上で普及しており、簡単にダウンロードして使用することができます。また、ブラウザそのものの多言語化も急速にすすんでいますから、今後は、ブラウザ上で、いろいろな言語に翻訳された聖書を比較しながら読むことで、聖書の中の言語や文化、他の言語や文化、そして自分のネイティブの言語や文化の理解が深まっていくであろうことを大いに期待したいと思います。

        ☆ interdisciplinary

         聖書も従来の聖書学もインターネット上に置かれることによって、読み方も研究の仕方もおおきく変化しつつあります。聖書学はそれぞれの時代に学際的であったが、さらに人々の多様な関心と出会って、ますます学際的になっていくでしょう。今までは、聖書と哲学、聖書と文学、聖書と歴史学、聖書と社会学、聖書と言語学、聖書と深層心理学が主たるものでした。もちろん、このほかにも研究者の趣味的な関心からは、いろいろな研究があったことはありました。しかし今後はは既成の学問領域との間だけでなく、どんな学際研究がおこなわれるか、非常に楽しみです。聖書というテキスト(織物)の中に織り込まれている「知恵」との出会いが、インターネットという織物(Web)と結びついて、多様な展開をしていくことになるでしょう。

         

      3. 限界あるいは問題性
         

     
     聖書がコンピュータ化することはプラスばかりかというと、もちろんそうではありません。物事の常で、プラスの面はその陰に必ずマイナス面をもっており、限界や危険性もあります。いくつか思い当たる点を挙げてみましょう。

    ☆ 書物としての聖書と、それに支えられていたプロテスタント教会と文化の衰退です。聖書を毎日読むことで支えられていたピューリタン的な生活様式、価値観、文化などは西欧だけでなく、明治以来の日本でも大きな影響を与えてきましたが、今後どうなるのでしょうか。印刷文化時代に入って、写本時代の「写経」の精神性のようなものが失われてしまったように、書物としての聖書を読むことで培われてきた精神性が失われるのではないかと危惧されます。

    ☆ コンピュータのメモリに頼ることで、記憶が弱体化することです。神の言葉(神の法)、「知恵」の言葉(詩、格言、たとえ、物語、歌など)は、文字からではなく、口から発せられ、口から口へと伝達され、人生経験に裏打ちされながら、確固たる伝承の言葉となっていったのです。聖書の伝承は口頭伝承を基本として誕生し、成長し、生き続けてきたもので、書き留められたのは後からの場合が多いのです。聖書格言のように、伝承の言葉というものは、暗記しておかなければ、いざというときに役立ちません。モーセ五書(律法)はメモのようなもので、暗記が主であったと主張する研究者もいます。それだけではありません。聖書は楽譜としての要素も持っていました。ですから、巻物や写本は、歌うときのメモのようなものだったのでしょう。とくに、過去の出来事の記録として書かれたとおりに、字義通りに読むのでなく、より深い意味のメッセージが読み手にむかって発せられるものとして読むメタファーやアレゴリーの読みは、暗記するぐらいテキストに親しんでいないと実用になりません。

    ☆ 聖書をあちこち調べる手作業を時間をかけてする必要がなくなることで、その最中にああでもない、こうでもないと心の中で思いめぐしたり、考えたり、瞑想する時間もなくなって、その結果、メディテーションや想像力が弱くなってしまう心配があります。ほんとうは逆で、忍耐のいる手作業の時間が減ることで、そういう考えたり思いめぐらしたりする時間が増えるはずなのですが、皮肉なことになかなかそうはなりません。心の時間は、効率やスピードアップとは相容れない内実をともなっています。なにかをするときに、だれかのためにするときに、準備にかける時間そのものに大切な意味があることをわれわれは知っています。効率化することで、味気なくなるのは、料理だけではありません。神との対話として聖書を読むときも、時間をかけること自体に大きな意味があるのです。

    ☆ 最も深刻な問題は「情報過多」という問題です。なにしろ、情報がありすぎます。聖書学でも同様です。Elenchusの文献目録(Elenchus bibliographicus biblicus )の膨大さをみてください。何が正確で、有意義な情報か、そうでないゴミ情報とどうより分けるか、これが大問題です。インターネットの検索システムがどんなに発達しても、より分け、評価はしてくれません。しかも、ほんとうに大切な情報は、そう簡単に公開されるものではないとも言えます。さらに、価値のある情報は、(神の国のたとえのように)、なぞのような秘密性を帯びていることさえあります。情報過多の現象がすすむなかで、真の価値ある情報にどうしたらたどりつけるか、この問題はネットワーク時代の進展とともにますます深刻化していくように思われます。
     

     

  2. パソコンから聖書へのアプローチ
     

     

    1. 資料(聖書本文、翻訳、注解など)の電子化とデータベース化
       

       

      聖書ソフトが発売される前は、「桐」を使って聖書本文、日本語訳、私訳、注解などのデータベースを自作していました。しかし現在は聖書本文、各種翻訳、コンコルダンスなどを備えたBibleWorks for Windowsという優秀なソフトがあります。これに各種日本語訳聖書とそれらのコンコルダンスも合体されればと願っていますが、それまでは「J―ばいぶる」や自作データベースと併用するほかはありません。

      しかし、注解については、今後も積極的にデータベース化して、インターネット上で公開し、聖書番号などで連動させて相互利用できるようなシステムにしていくのが望ましいでしょう。ここでは、「桐」で作成中の「創世記注解」のデータベースを「Access 97」へ移しかえたもののサンプルをお目にかけておきます。(一部は『新共同訳聖書注解』日本基督教団出版局に発表」)。
       

       

    2. CD-ROMのなかの聖書(学)
       

       

      聖書ソフトにどのようなものがあるか、「神学・聖書学のサイトとソフト」にその内容や特徴などについて解説してあります。
       

    3. インターネットのなかの聖書(学)
       

     

    聖書および聖書学がインターネット上にどのように展開されているか、「神学・聖書学のサイトとソフト」にその内容や特徴について解説してあります。

     

  3. パソコンをツールとした聖書の解釈
     

     

    1. キーワードによる解釈
       

       

       ひとつの効果的な例としてキーワード検索に注目してみたいと思います。聖書の中のキーワードに注目することは、古典レトリックでも同じ語句の反復による文体技法として重要であったことから、現代の文芸学的な聖書学でも決して目新しい方法ではありません。文芸学が聖書学とどのような関係にあり、現代の文芸学が聖書学にどのような影響を与えているかについては、「旧約学における文芸学的方法の位置」(基督教研究 第42巻第1号 1978年12月)に書いておきましたが、キーワードについてはMartin Buber (Leitwort)などもその重要性を強調しています。このような言語学や詩学・文芸学の中で、とくにニュー・レトリック、テキスト理論、記号論などの動きともあいまって、キーワードは聖書学の領域でもあらためて注目し、作業をしていかなければならないテーマではないかと思います。というのは、聖書の各文書がテキストとして形成される段階でも、また古代・中世の時代に読まれる場合にも、キーワードの技法が重要だったからです。テキストが字義通りの意味を超えた意味を伝えるとみなされる場合、言葉は記号論でいうときの指示機能=denotationから、共示機能=connotationを持ちはじめ、隠喩=metaphorが成立するからです。(拙論「比喩としての旧約テキスト」『基督教研究』第43巻第1号 1980年発行参照)。
       

    2. 具体例
       

       

       ひとつの具体例として、ヨハネ福音書13章1節以下の「足を洗う」という表現をとりあげてみましょう。このイエスの行為に意味については、13章14節に「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と解き明かされています。しかし、BibleWorks for Windows や自作の新共同訳聖書データベースを使って、ヘブライ語ギリシャ語日本語で検索してみますと、別表のようになります。これらの箇所の文脈から読みとれる「足を洗う」という意味は、字義通りの意味を超えて、家族や夫婦や恋人などの親しい愛の交わりの関係世界へ入ることを意味していないでしょうか。とすれば、ヨハネ福音書でイエスが弟子たちの足を洗ったことの意味は13章14節にあるような倫理的な次元での愛の教えを超えて、元来は愛の交わりの世界へ今からわたしと一緒に入ろうという終末論的な次元での神の国への招きの意味が込められていたのではないでしょうか。ヨハネ福音書が形成されていくうちに、旧約聖書の文脈でのキーワード的な意味が忘れられて、編集史的に言えば比較的後の段階で倫理的な意味での愛の教えが模範解答のように付け加えられることになったと思われます。
       

    3. ネットワークと聖書解釈
       

       

       NC(network computing)の時代には、聖書や聖書解釈のデータや情報は個々のパソコンや大型コンピュータに集中して置かれるより、ネットワークの中に分散、共有される度合いが高くなります。そうなると、書物をメディアとした場合の聖書解釈とは異なった展開が予想されます。なぜなら、テキストの解釈はコンテキストに依存する度合いが高いからです。
       

      1. ヴァーチャル・コミュニティ

         コンピュータはヴァーチャル・リアリティの世界を作り出しています。CGを駆使して、仮想の町、店舗、電子マネーなどですが、それが「仮想現実」と呼ばれています。しかし、いったい何が「現実」で、何が「ヴァーチャル」なのか。従来は「現実」と「現実感」の違いとして考えられてきましたが、これは神学や哲学にとっては古くて新しい問題です。神学にとっては、教会論がこの問題を考えるときのアナロジーとなるのではないかと思われます。というのは、キリスト教会は聖書を正典としてみずからの共同体を形成してきましたが、いつの時代でも神の国と教会とこの世の関係は神学の根本問題だったからです。すでに旧約聖書はそもそもの初めから人間の共同体性について問題にしており、とくにイスラエルの共同体の問題をとおして人類の共同体性について深い洞察をしています(創世記2−3章)。新約聖書ではさらにイエス・キリストの語った神の国(神の愛による共同体)をはじめ、キリスト教会の始まりについて、この世との関係について、いろいろなことが書かれています。このような聖書との密接なかかわりの中で、キリスト教会が展開してきた思想が「神学」なのですが、神学は、われわれが普通、現実と呼んでいる世界における共同体とはどのようなものか、その共同体ははたして真実の共同体なのか、真実の共同体とはいかなるものか、それは現実世界でも成立するものなのか、といった問題について長い歴史の中で検討を積み重ねてきたのです。「この世と神の国」、「見える教会と見えない教会」はどのように関わりあっているのか、今、ここという時間と空間に限定されない共同体や関係世界といったものが成立し得るのか、といった問題です。このような問題は、コンピュータに関係していえば、「ヴァーチャル」な領域についての考え方とパラレルなところがあるので、神学者にとっては非常に興味があるのです。

         聖書は教会の中で読まれなければならないと、よく言われますが、これが聖書を独りよがりの読み方で自己満足してしまう弊害を避ける意味だとすれば、インターネット上での聖書の解釈をめぐる対話は新しい共同体を形作っていくことになるかも知れません。すでに、「ヴァーチャル・チャーチ」のホームページがインターネット上にし始めています。

         このような動きは、現実の教会という空間の積極的な存在意味をあらためて問い直したり、見いだす作業をわれわれに今まで以上に要求することになるでしょう。またそうすべきではないでしょうか。電脳空間で代替できないことは、いったい何なのかという問いです。
         

      2. 電脳空間における「ビブリオドラマ」。

         Bibliodrama は、聖書のテキストを台本とみなし、礼拝の中や教会学校などで、参加者が役割分担をしてドラマとして演じることで、聖書解釈と実践神学と演劇の共同実験として、ドイツで実践されている方法です。(一例として Bibliodrama in der Gruppenarbeit fur Beratung, Seelsorge und Verkundigung -Weiterbildungsprogramm を挙げておきます。) 聖書を演じてみることはもちろん、演劇や映画などの領域ではいくらでもありますが、より聖書学や礼拝学などとの関連を重視して、言葉のニュアンス、声の調子、言葉の表情などを大切なものとして解釈し、再現する努力をすることで、より深い聖書理解、そして神理解、人間理解を目指す方法です。

         また、聖書解釈の方法として「物語理論」(Narratology)、「物語批評」(narrative criticism) などが聖書にも適用され、聖書テキストの「物語性」や積極的な読者の「読む行為」を重視した研究が行われるようになってきています。このようなBibliodramaやNarratologyなどは、われわれを「個人」と「文書」の枠内での聖書研究からマルチメディアを使った研究へと誘っているかのようです。

         

      3. 多様な文化的コンテキストとの出会い。

           聖書を理解する、理解し合うことの基礎作業は、翻訳という作業です。既成の翻訳聖書の言葉使いにわれわれはいつも違和感を感じてしまいますが、そうであれば、自分で自分の使っている日常言語に、あるいは相手の言葉に言い換える努力をする必要があるのではないでしょうか。われわれ人間が生きている個人個人の言語と文化の「コンテキスト」(テキストをとりまくコミュニケーション状況)はもちろんのこと、個人が属している集団、社会などのコンテキストもじつに多様なのです。このようなコンテキストがさらに国際化や電脳空間の誕生でますます多様化しつつあるのですから、聖書のもつ基本的なメッセージである愛という神と人、人と人との共同体的関係の破れと回復の問題もまた、コンピュータ・ネットワークの中での多様な言語や文化のコンテキストにおいても、新しい出会いの中で共有されていく豊かな可能性があるのではないでしょうか。

           聖書は、人間にとって基本的に大切な問題(生と死、愛、苦しみと喜びなど)を取り扱っています。そしてそれらの問題が人間の共同体性にかかわったものであればあるほど、現在の神学や聖書学にとっては、それらの問題とそれらの取り扱い方が、コンピュータ・ネットワークの作り出す世界とどのようにかかわっていくのか、じつに魅力的であり、刺激的であり、新しい可能性を予測させるものだと、わたしには思えるのです。

          今夜は、コンピュータやインターネットの世界の中で、聖書がどのように取り扱われ、読まれようとしているか、その現状、その魅力、その問題点などについて、まことに不十分ではありましたが、ご一緒に学び、考えることができたことをたいへんうれしく存じます。この次は、インターネットの中で、皆様とお会いするのを楽しみにしています。

          野本 真也(同志社大学神学部教授)